サラエボ事件とは、1914年6月28日に、現ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで起きたオーストリア皇太子夫婦射殺事件のことです。犯人はセルビア人民族主義者であったことから、オーストリアとセルビアの戦争から世界規模の戦争に拡大し、第一次世界大戦の口火を切った事件として知られます。
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サラエボ事件の起こった場所は、現ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボです。ディナール山脈に囲まれたサラエヴォ渓谷の中にあり、古くから豊かな水脈と森林に覆われ、アドリア海とハンガリー平原を結ぶ交易の要衝として重視されてきました。セルビア人、クロアチア人は7世紀頃にはこの地に住んでいたと考えられています。
15世以来長らくオスマン帝国の支配下にありましたが、同国の没落にともないオーストリア=ハンガリー帝国に占領され(1878年)、その行政府の管轄下に置かれていました。そして同時にオーストリア支配への反発から、セルビア人の独立運動の中心地ともなっていったことが、事件の背景にあるのです。
現ボスニア・ヘルツェゴビナは、1878年にオーストリア=ハンガリー帝国に占領されて以来、その行政府の支配下に置かれていました。しかしこの地には7世紀頃からセルビア人が居住しており、オーストリアを「侵略者」と感じるセルビア人は少なくありませんでした。
さらに1908年には正式にオーストリアに併合されることとなり、セルビア人の反オーストリア感情にいっそう火をつけることになります。
オーストリア支配からの解放と南スラブ人の統一を目指すセルビア人汎スラブ主義者(大セルビア主義)の活動は、日増しに熱を帯びていき、オーストリア行政府とロシアの支援する独立運動の対立から、当時のバルカン半島には「ヨーロッパの火薬庫」と例えられるほどの緊張が走っていました。
1914年6月のサラエボ事件は、そんな情勢の中、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公とその妻ソフィーが、軍事演習視察のためサラエボに訪問した時に起きたのです。
ヨーロッパの火薬庫の風刺画。帝国主義諸国がバルカン半島の民族を支援すると同時に、自らの権益拡大を狙っている様子を皮肉っている。
1914年6月28日、軍事演習視察のためサラエボに訪問していたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公とその妻ソフィーが、セルビア人民族主義者の青年に射殺されました。実行犯の背後にいたのは反オーストリア秘密結社「黒手組」でしたが、オーストリア政府はセルビア政府の関与を疑い、同政府に「反オーストリア運動の弾圧」をはじめ内政干渉に値する要求をつきつけます
1914年7月12日のイタリアの新聞に掲載された暗殺場面の挿絵
この「最後通牒」が受け入れられなかったことで、オーストリアはドイツ支持のもとセルビアに宣戦布告するのですが、これは事実上「ロシアへの宣戦布告」でもありました。南下政策の一環としてバルカン半島に影響力を持ちたいロシアは、セルビアの独立運動(反オーストリア運動)を支援していたためです。
つまりオーストリアとセルビアの戦端が開かれた瞬間、自動的に当時の同盟関係から、三国協商(ロシア・イギリス・フランス)vs三国同盟(オーストリア・ドイツ・イタリア)の戦争が成立することとなり、全ヨーロッパに火の手が燃え広がる、第一次世界大戦の火蓋が切って落とされることになってしまったのです。
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