パックス=ブリタニカ

パックス=ブリタニカ

パックス=ブリタニカを築いたヴィクトリア女王の戴冠式

 

パックス=ブリタニカ(イギリスによる平和)とは、19世紀半頃から20世紀初頭にかけ、主にヴィクトリア女王(在位1837 - 1901年)の治世において、イギリスが世界の覇権を握っていた時代のことです。イギリスが、いちはやく産業革命を達成したことによる圧倒的な工業力・経済力・軍事力に物を言わせ、世界の警察然とふるまっていたことからこのように呼ばれています。

 

実際、この時代のイギリスは、植民地を広げに広げることで世界の四分の一をも支配下に起き、自由貿易を拡大、「世界の工場」として繁栄の頂点を極めていたのです。

 

 

「パックス=ブリタニカ」の由来

「パックス=ロマーナ」を体現したローマ帝国の最大版図

 

パックス=ブリタニカ(Pax Britannica)はラテン語で「イギリスの平和」という意味です。かつて地中海世界で広大な領土を支配したローマ帝国を、「パックス=ロマーナ」と称したのになぞらえたもので、「パクス(pax)」はローマ神話の平和と秩序の女神の名に由来しています。

 

「パックス=ブリタニカ」の歴史

上述したように「パックス=ブリタニカ」は、19世紀から20世紀初頭にかけて、イギリスが世界の覇権を握り、相対的な平和と秩序をもたらした時代を指します。とはいえ、その実態は、イギリスの圧倒的な国力と海軍力を背景に、アジアやアフリカなど非ヨーロッパ諸国に対する差別的かつ抑圧的な支配によって成り立っていました。以下では、この歴史を「前史」「現出」「衰退」の3つの項目に分けて解説いたします。

 

前史:産業革命と海上覇権の確立

「パックス=ブリタニカ」の前提として、まず18世紀後半から19世紀初頭にかけて起こった産業革命が大きな要因となっています。

 

イギリスは産業革命によって経済力と生産力を飛躍的に向上させ、他国に先駆け工業化を達成することが出来ましたが、同時に豊富な工業製品や貿易品を輸出するための広大な市場が必要となり、世界中に植民地や貿易拠点を確保していきます。

 

また、18世紀にはフランスやオランダとの戦争を通じて、イギリスは制海権を確立し、海上貿易をほぼ独占しました。ナポレオン戦争(1799 - 1815)での勝利によって、イギリスはヨーロッパ全体の勢力バランスを保ちつつ、アジアやアフリカにも支配を拡大させ、いよいよ「イギリスによる平和」の基盤を築き上げたのです。

 

現出:絶対的覇権と世界の支配

「パックス=ブリタニカ」が本格的に現出したのは、19世紀前半から20世紀初頭にかけてです。この時期、イギリスは世界の工場として君臨し、ヨーロッパ諸国だけでなく、アジア、アフリカ、新大陸といった地域に広範な影響力を行使しました。イギリス海軍は世界最大規模を誇り、地中海からインド洋、太平洋に至るまで、海上航路を掌握していました。この強大な海軍力によって、世界中の貿易ルートを支配し、植民地経済を維持することが可能となったのです。

 

しかし、「イギリスによる平和」とはいえ、その実態は抑圧的な植民地支配でした。インドをはじめとするアジアやアフリカの諸地域では、イギリスの支配が現地の人々に重い負担を強い、搾取や差別が蔓延しました。こうした支配は当然、現地住民の反発を招き、各地で反英感情が高まっていきます。たとえば、インドでは1857年に「インド大反乱(セポイの乱)」が起こり、イギリスの支配に対する強い抵抗が見られました。このような状況の中で、イギリスは軍事力を使って植民地支配を強化していきましたが、その背後では、覇権国としての地位が次第に揺らぎ始めていたのです。

 

衰退:新興国の台頭と植民地独立の波

19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリスの覇権は徐々に衰退していきました。産業革命でいち早く工業化を成し遂げたイギリスでしたが、その後、ドイツやアメリカ、日本といった新興国が急速に工業化を進め、世界経済の中心がこれらの国々に移行し始めました。これにともない、イギリスの経済力は相対的に低下し、工業製品の競争力も次第に弱まっていきます。さらに、ロシアでは社会主義の影響力が拡大し、ソビエト連邦が誕生。イギリスの支配体制を脅かす新たな勢力が登場したのです。

 

さらに20世紀に入ると、第一次世界大戦(1914 - 1918)と第二次世界大戦(1939 - 1945)の2度の大戦がイギリスに深刻なダメージを与えました。経済的にも人的にも大きな消耗を強いられたイギリスは、植民地帝国を維持する余力を失っていきます。さらに、戦後には世界的な「自決権」の潮流が広がり、イギリスの植民地支配はますます厳しくなりました。

 

特に、インドやアフリカ諸国では、独立運動が活発化し、イギリスはそれに対して従来の強制的な支配を維持できなくなります。そして1947年にインドが独立したのを皮切りに、残っていた植民地も相次いで独立を果たしていったことで、「パックス=ブリタニカ」は名実ともに終焉を迎えたのです。

 

「パックス=ブリタニカ」の影響

上述した通り、「パックス=ブリタニカ」とは、19世紀から20世紀初頭にかけて、イギリスが世界の覇権を握り、世界的な安定と秩序を保った時代のことを指します。この時代の影響は政治的、経済的、文化的に広範囲にわたり、世界中に多大な変化をもたらしました。以下では、これらの影響を分けて解説します。

 

政治的影響

イギリスは強大な軍事力と海軍力を背景に広大な植民地帝国を構築し、特にアジアやアフリカで強固な支配体制を敷きました。そしてこの支配の中で、現地の政治体制はイギリスの利益に沿うように改編され、これが後世にまで影響を与えています。

 

このようなイギリス主導の統治は、現地の文化や伝統を抑圧し、社会的緊張を生み出しました。

 

また、イギリスは他のヨーロッパ諸国との関係においても、バランス・オブ・パワー(勢力均衡)を維持する役割を果たしました。これにより、19世紀のヨーロッパでは大規模な戦争が避けられ、ヨーロッパ内での相対的な安定が保たれた・・・といえる一方で、この覇権体制が築かれる中で、後の帝国主義的な競争や第一次世界大戦への道筋が形成された事実もあるのです。

 

経済的影響

経済面での影響も「パックス=ブリタニカ」は非常に大きなものでした。イギリスは産業革命の進展によって、世界の工場として大量の製品を生産し、これらを世界各地に輸出。貿易網を劇的に拡大しました。

 

そしてアジアやアフリカの植民地は、原材料の供給地として、また工業製品の市場としてイギリス経済を支えました。特に、インドやアフリカからの綿花やゴムなどの資源がイギリスの工業を活性化させています。

 

さらに、イギリスは海軍力を背景に自由貿易体制を推進し、世界中で経済的な影響力を広げました。ロンドンは19世紀の国際金融の中心地となり、金本位制に基づく国際的な経済システムも確立されています。

 

しかし、この一方で、イギリスの経済力は植民地諸国を搾取する形で成り立っており、現地の経済構造は一方的にイギリスに依存する形で発展したため、独立後に経済的な自立が難しくなるという問題も引き起こしたのです。

 

文化的影響

「パックス=ブリタニカ」は文化的にも広範な影響を与えました。とりわけイギリスの言語や教育制度、法制度が植民地支配を通じて広まったのが大きいでしょう。

 

英語は国際的な言語として定着し、現在でも多くの国で公用語や第二言語として使用されていますし、イギリスの法律や議会制度は、多くの植民地で導入され、独立後の国々においても政治や司法制度の基盤になっています。

 

そして教育面では、イギリスの学校制度が植民地に広がり、現地のエリート層が英語教育を受けることが出来た影響が大きいです。たとえば、インドやアフリカの指導者層はイギリス流の教育を受けることで、後の独立運動においても重要な役割を果たしていますね。

 

以上のように、「パックス=ブリタニカ」は、政治的な支配体制の強化、経済的な繁栄、そして文化的な影響を世界中に広げた時代でした。しかし、その背景には、非ヨーロッパ諸国に対する抑圧的な支配があり、それが後に反発を招く要因ともなったのですね。

 

これら一連の出来事は、「パックス=ブリタニカ」の終焉を象徴するものとなりました。イギリスの影響力が衰退し、新たにアメリカとソビエト連邦が二極体制を築く世界へと移行していったのです。これが、「パックス=ブリタニカ」から「パックス=アメリカーナ」へとシフトする過程であり、世界の様相を一変させた出来事でした。