
ロシア革命は、第一次大戦末期のロシアで勃発した、世界初の社会主義国家ソビエト連邦の成立に繋がった人民革命です。その後のソ連の躍進は、社会主義者・共産主義者・反資本主義者・反帝国主義者の世界台頭を招き、ヨーロッパ史はもちろんのこと、世界史にも重大な影響を及ぼすことになりました。
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ロシア革命が起こった背景には、ロシア帝国が三国協商として参戦していた第一次大戦の長期化、それにともなう人的・物的被害、不況・窮乏の拡大があります。そんな中帝国政府に対する不満がピークに達すると、まず二月革命(1917年3月)で帝政(ツァーリズム)が打倒され、次ぐ十月革命(1917年11月)でソビエト政権が成立しました。
その後、英仏米日などが反革命の軍事介入(シベリア出兵)を開始したため、ロシア内戦が勃発しますが、ソビエト軍はこれに勝利し、反革命勢力(白軍)を一掃した上で、1922年ソビエト連邦の樹立を宣言しました。
「ロシア革命」は、広義には1905年に血の日曜日事件をきっかけとして起こった「第一革命」のことも含め、狭義には1917年の「第二革命」(二月革命・十月革命)のうち、ソ連建国にいたる十月革命のみを指します。しかし十月革命の背景には第一革命も密接に関係しているので、広義で俯瞰してみたほうが革命の理解に繋がるでしょう。
なお「二月革命」・「十月革命」という呼称は、当時のロシアで採用されていたロシア暦(ユリウス暦)にならったもの。西暦ではそれぞれ3月、11月にあたるので三月革命、十一月革命とも呼ばれます。
ロシア革命は、1905年の革命は第一次革命、1917年の帝政崩壊とソビエト政権樹立にいたった革命(二月革命、十月革命)は第二次革命と呼ばれています。
ロシア第一次革命は、日露戦争中の1905年1月に起きた革命運動で、労働者の平和的なデモ行進に対し、鎮圧に向かった兵士が発砲し、死傷者を出した「血の日曜日事件」が発端となりました。首都ペテルブルグを中心として、怒った国民による全国的なストライキや反乱が発生しますが、国会開設勅令の発布など帝国政府が一定の譲歩をしたことでひとまず沈静化しました。
1917年2月国際婦人デーにあわせて女性労働者中心の「パンをよこせ」デモが起こり、ロシア第二次革命の引き金となった。
ロシア第二次革命は、第一次世界大戦の長期化にともなう経済不況を背景に勃発しました。今度は労働者だけでなく兵士までも蜂起に参加したことで収拾がつかなくなり、ロシア帝国政府は崩壊に追い込まれてしまいました。代わり臨時政府が樹立しましたが、11月(ロシア歴では10月)に社会主義勢力のボリシェビキにより打倒されています。(十月革命)
ロシア革命(1917年)は、ロシア帝国を終焉に導き、世界初の社会主義国家であるソビエト連邦を樹立した歴史的出来事です。この革命を牽引したのは、多彩な経歴と背景を持つ個性豊かな指導者たちでした。以下では、それぞれの指導者の経歴と革命における役割を掘り下げて説明します。
ボリシェヴィキの代表者としてロシア革命を主導した人物の1人で、いわずと知れた後のソ連の最高指導者です。実は「鋼鉄の人」を意味する「スターリン」 はペンネームで、本名はジュガシビリといいます。1879年グルジア(ジョージア)の靴屋の子として生まれ、1898年ロシア社会民主労働党に入党。1917年の二月革命後は民族人民委員となり、1922年党書記長に。1924年1月レーニンが死ぬと、トロツキーとの権力争いの末、最高指導者の座につき、1953年死去するまでそれを手放しませんでした。彼はその治世で「大粛清」と呼ばれる政敵の徹底的な弾圧を行ったことで知られ、彼により処刑・シベリア追放処分にされた者は数十万人にもおよびます。
パーヴェル・ミリュコーフは、立憲民主党(カデット)の創設者であり、帝政時代のロシアにおけるリベラル派の象徴的存在でした。彼は歴史学者として卓越した知識を持ち、議会政治の導入や憲政改革を主張しました。1917年2月革命後、臨時政府の外相として重要な役割を果たしましたが、戦争継続を主張したことで労働者や兵士からの反発を受け、辞任を余儀なくされました。その後、革命後の保守派反対運動に参加しましたが、亡命生活を送ることになりました。
アレクサンドル・ケレンスキーは、臨時政府の首相としてロシア革命の最前線で活躍しました。弁護士としてのキャリアを通じて労働者や農民の権利を擁護し、社会革命党に加わりました。彼は2月革命後、臨時政府の副首相および首相を務めましたが、ボリシェヴィキの台頭と10月革命の成功により失脚しました。ケレンスキーは亡命後も革命について執筆し、回顧録を通じてその時代の証言を残しました。
レフ・トロツキーは、ボリシェヴィキ革命の軍事的・組織的指導者であり、赤軍の創設者として知られています。彼はマルクス主義理論の発展に寄与し、国際主義的な視点を強調しました。10月革命ではレーニンと共に主要な役割を果たし、ソビエト政権の確立に大きく貢献しました。しかし、スターリンとの権力闘争に敗れ、国外追放の後、メキシコで暗殺されました。
ニコライ・チヘイゼは、グルジア(現在のジョージア)出身のメンシェヴィキのリーダーで、労働者や農民の権利向上を目指しました。彼は1917年のペトログラード・ソビエトの議長を務め、労働者と兵士の統合を図りましたが、ボリシェヴィキの急進的な政策には反対しました。革命後、彼はグルジアに戻り、メンシェヴィキ主導の政権に参加しましたが、赤軍の侵攻で亡命を余儀なくされました。
グリゴリー・ジノヴィエフは、ボリシェヴィキの中核メンバーとして、革命期における理論家および政策立案者の一人でした。彼は10月革命で指導的役割を果たし、その後、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の初代議長を務めました。しかし、スターリンとの対立が激化し、1930年代の大粛清で処刑されました。彼の業績と失脚は、革命後の内部権力闘争の象徴的なエピソードです。
ウラジーミル・レーニンは、ロシア革命の象徴的指導者であり、ボリシェヴィキの創設者です。彼は資本主義を打倒し、社会主義国家を建設するための理論と戦略を練り上げました。1917年の10月革命では、臨時政府を打倒し、ソビエト政権を樹立しました。彼の著書『国家と革命』は、マルクス主義の実践的指針として世界中で広く読まれています。晩年は健康を損ないながらも、新経済政策(NEP)を導入し、経済再建を試みました。
ヤーン・アンヴェルトは、エストニア出身のボリシェヴィキ指導者であり、革命期には地域社会主義運動の発展に尽力しました。彼は作家としても活躍し、文学を通じて社会主義の理念を広めました。エストニア共産党の指導者として活動しましたが、スターリン時代の粛清により処刑されました。その後の歴史評価では、彼の文学的業績と政治的活動の両方が再評価されています。
これらの指導者たちは、それぞれの思想と行動を通じてロシア革命を形作り、その後のソビエト連邦および世界史に大きな影響を与えました。彼らの多様な経歴と功績は、革命がもたらした希望と葛藤を象徴しています。
ロシア革命は、第一次世界大戦の末期、ロシア帝国を打倒し、世界初の社会主義国家ソビエト連邦を樹立した人民革命だったのです。1917年の二月革命で帝政が崩壊し、十月革命でボリシェヴィキが臨時政府を打倒。続くロシア内戦を経て1922年ソ連が成立しました。この革命は社会主義思想を世界に広め、反資本主義・反帝国主義運動を刺激する一方で、スターリン体制下で大粛清などの暗い側面も生みました。
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