
戦いが行われたシチリア島の北海岸ナウロクス沖
ナウロクス沖の海戦は、紀元前36年9月3日に古代ローマで起こった、反カエサル派のセクストゥス・ポンペイウス軍と、カエサル派のオクタウィウス軍が、シチリア島ナウロクス沖の海戦です。セクストゥスはカエサル、クラッススと共に三頭政治の一角を担ったグナエウス・ポンペイウスの息子。父の死後、その支持基盤を受け継ぎ、カエサル派への抵抗を続けていましたが、前36年ナウロクス沖の海戦で大敗後、アナトリア半島西海岸のミレトスで捕えられ、処刑される運命を辿りました。以下でそんなナウロクス沖の海戦の原因・結果・影響について、もう少し掘り下げてみていきます。
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ナウロクス沖の海戦が勃発した背景には、セクストゥス・ポンペイウス(前67年 - 前35年頃)の存在がありました。彼は、父であるグナエウス・ポンペイウス(前106年 - 前48年)がカエサルとの内戦で敗死した後、その遺産を受け継ぎ、反カエサル派の象徴的な存在となりました。特に、彼はシチリア島を拠点とし、ローマ本土への穀物供給を妨害することで、オクタウィウスをはじめとするカエサル派を大きく揺さぶりました。
この戦争の原因には、第二回三頭政治の崩壊が見え隠れしています。オクタウィウス、アントニウス、レピドゥスの間で権力の綱引きが激化する中、セクストゥスは三頭政治の内部対立を巧みに利用し、勢力を拡大させていました。とりわけ、ローマ市民の食糧危機を引き起こし、政治的不満を煽ることで、彼は一時的にローマに対する影響力を高めることに成功したのです。
しかし、こうしたセクストゥスの動きに対して、オクタウィウスは自らの権威を守るため、彼の排除を決意しました。このようにして、ナウロクス沖での決戦が避けられない状況となったのです。
紀元前36年、アグリッパ率いるオクタウィウス軍の艦隊が、セクストゥス軍に対して決定的な勝利を収めました。この海戦では、アグリッパが新型の艦船や優れた戦術を駆使し、セクストゥスの艦隊を壊滅させました。セクストゥスは敗北後にシチリアを逃れましたが、アナトリア半島に追い詰められ、最終的に捕らえられて処刑されました。
この戦いにより、シチリア島はオクタウィウスの支配下に戻り、ローマ本土への食糧供給も安定しました。また、セクストゥスが排除されたことで、第二回三頭政治の一角であるレピドゥスも権力を喪失し、オクタウィウスが実質的にローマ西部を掌握することとなりました。
ナウロクス沖の海戦は、オクタウィウスがローマの覇権を確立する過程で重要な転換点となりました。この勝利によって、彼はローマ市民の支持を獲得し、アントニウスとの権力闘争で有利な立場を得ました。一方、セクストゥスの死によって反カエサル派の抵抗運動は完全に終焉を迎えたといえるでしょう。この戦いは、ローマ内乱の終結に向けた流れを加速させ、後の帝政ローマの基盤形成に直接つながった点で極めて重要なのです。
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