
フランス軍が敗北を喫したプエブラの会戦
メキシコ出兵、とは、1862〜66年にかけて行なわれた第二帝政フランスのメキシコ侵略戦争です。フランスのメキシコに対する内政干渉が発端であり、ナポレオン3世の遠征失敗・権威失墜の象徴的事件として語られています。
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メキシコでは1855年の革命の結果自由主義者が政権をとり、国の財政難を解消すべく、聖職者の財産没収、対外債務の支払いを停止するといった改革を実行していました。
しかし債権者のフランスは当然これを不服としたため、1862年、債務の履行を迫り、イギリス・スペインとメキシコへ共同出兵を行ったのです。
イギリスとスペインは同年4月に介入を中止したものの、メキシコで採掘される銀利権を捨てることのできないフランスは干渉を継続しました。
その結果、1863年には首都メキシコシティーを占領し、翌年にはハプスブルク家のマクシミリアンを皇帝とするフランス傀儡国メキシコ帝国を樹立するに至ったのです。
メキシコ出兵(1861〜1867年)は、フランス第二帝政のナポレオン3世による軍事的冒険であり、その影響はフランス、アメリカ、メキシコに大きな波紋を広げました。
アメリカは、隣国メキシコにフランスの影響力が及ぶことを快く思いませんでした。しかし、当時アメリカは南北戦争(1861〜1865年)の最中であり、メキシコ問題に直接介入する余裕はありませんでした。そのため南北戦争が終結した1865年以降、アメリカはただちに行動を開始します。
アメリカ合衆国議会は、フランスが設立したメキシコ帝国を正式に否認し、即時撤退を要求しました。さらに、フランス軍の増援を阻止するために海上封鎖を実施し、フランスに対して強い外交的・軍事的圧力を加えました。
アメリカとの対立を避けたいナポレオン3世は、最終的にメキシコからの撤退を決断しました。これによりフランスのメキシコ政策は頓挫します。 メキシコ皇帝として擁立されたマクシミリアンは、フランス軍の撤退後、メキシコ共和派に捕らえられ処刑されました。この事件はナポレオン3世の国際的威信を著しく損ない、フランス国内でも失策として非難されました。
アメリカはこの事件を通じて、ラテンアメリカにおけるヨーロッパ列強の干渉を排除する姿勢(モンロー主義)を強化し、影響力を拡大しました。
ナポレオン3世にとってメキシコ出兵は失政とみなされ、支持率低下を招き、1870年の普仏戦争での敗北を経てフランス第二帝政の崩壊に繋がる遠因となりました。
メキシコは共和制を復活させ、フアレス大統領の下で国内の統一を再び進めました。
メキシコ出兵は、フランスの帝国主義的野心が失敗に終わった象徴的な出来事であり、その後の国際関係や地域秩序に大きな影響を与えました。
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