ミトリダテス戦争

ミトリダテス戦争の概要

黒海東岸地域はポントス王国の勢力圏だった。

 

ミトリダテス戦争は、前88年から前63年までの三次にわたり、共和政ローマポントス王国の間で行われた戦争です。ポントスは、前4世紀末、アナトリア地方の黒海南岸に建設された国家で、肥沃な土地と豊富な鉱物資源を背景に前1世紀前半には全盛期を迎えていました。一方拡大するローマの影響力を警戒し、前91年の同盟市戦争では反ローマの姿勢を明確にします。そんな中で、前88年ミトリダテス6世はローマの同盟国へ侵略を始め、ローマがこれを口実としてポントスに宣戦布告したことで、ミトリダテス戦争の戦端が開かれたのです。最終的にローマは、第二次では敗れたものの、第一次、第三次で勝利をおさめ、ポントス王国の領土を勢力圏に組み込むことに成功しました。以下でそんなミトリダテス戦争の原因・結果・影響についてもう少し詳しく見て行きましょう。

 

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戦争の原因

戦争の原因は、ポントス王国のミトリダテス6世(前135年頃 - 前63年)がローマの東方支配に強く反発したことにあります。この背景には、アナトリア半島におけるローマの影響力拡大がありました。ローマはすでにペルガモン王国の領土を編入するなど、小アジアでの支配を強化していましたが、それは現地の諸勢力に対し高圧的な姿勢を取るものでした。このため、ローマに従う勢力と敵対する勢力が地域内で分断され、不満が高まる状況が生まれていたのです。

 

一方、ミトリダテス6世はポントスを中心に黒海沿岸の大国を築き、ローマを排除して独立した勢力圏を形成しようとしました。彼の野望は、ただローマと対立するだけでなく、ギリシア系都市や東地中海諸国を巻き込みながら、反ローマの同盟網を構築することにありました。特に前88年、彼がローマの同盟国であるカッパドキアやビテュニアに侵攻したことが戦争の直接的な引き金となりました。

 

さらに、この時期に発生した「アジアの晩祷」と呼ばれる事件が、戦争を決定づけた要因といえます。この事件では、ミトリダテス6世の指令でアナトリア半島にいたローマ人やイタリア系住民が一斉に虐殺され、その犠牲者は8万人にも上ったとされています。このような行動はローマにとって看過できるものではなく、すぐに軍事的な報復を引き起こしました。

 

このように、ミトリダテス6世の拡張政策とローマの覇権主義が激突したことが、ミトリダテス戦争の本質的な原因だったといえるでしょう。

 

戦争の結果

ミトリダテス戦争は、最終的にローマが勝利を収め、東方支配を大幅に強化する結果となりました。第一次戦争ではスラ(前138年 - 前78年)の指揮のもと、ローマはポントスを撃退し、ミトリダテス6世に有利な条件で一旦講和を結びます。しかしその後、第二次戦争で再び両国が衝突。ローマは敗北を喫しつつも戦争の継続を決意し、ルクルス(前118年 - 前57年)やポンペイウス(前106年 - 前48年)といった指揮官が登場する第三次戦争へと突入しました。

 

この第三次戦争では、ポンペイウスが圧倒的な軍事力をもってポントスを追い詰め、ミトリダテス6世は最終的に北方へ逃亡。味方に見限られた彼は前63年、自ら命を絶つことでその波乱の生涯に幕を下ろしました。こうして、ポントス王国は完全に崩壊し、その領土はローマの東方属州に編入されます。これにより、小アジア地域の安定化が進み、ローマは地中海東部における覇権を確立しました。

 

さらに、この戦争を通じてローマは東方の豊かな資源や経済基盤を掌握し、共和国の財政基盤を大きく強化しました。一方で、戦争の継続による負担や指揮官たちの政治的影響力の拡大は、ローマ内部の権力闘争を激化させ、共和政崩壊への伏線ともなったのです。

 

このように、ミトリダテス戦争の結果はローマの東方支配を確立する一方で、内政面では新たな混乱を招く契機となったといえるでしょう。