ローマ内戦

ローマ内戦

ルビコン川に佇むカエサル。この川を越えた瞬間ローマ内戦の火蓋は切って落とされた。

 

ローマ内戦とは、前49年から前45年に、グエナウス・ポンペイウスガイウス・ユリウス・カエサルの対立から発展した一連の内戦のことです。停滞した元老院支配が続くローマに対し、カエサルが起こした反逆戦争ともいえ、最終的には、カエサルが元老院派のポンペイウスを打倒し、独裁体制を完成させる形で終結しました。

 

 

ローマ内戦の背景

当時のカエサルは、ローマが長年成し遂げられずにいた「ガリア平定」という大仕事を成し遂げたことで、その名声・権威、政治的影響力を最高潮にしていました。一方元老院は、カエサルに権力が集中し、共和政に終止符が打たれることを恐れ、カエサルに劣らぬ戦功を持つポンペイウスを担ぎ上げ、カエサルを失脚させようとしていました。

 

ローマ内戦の開始

前49年、元老院はガリアから帰還するカエサルに「元老院最終勧告」と呼ばれるいわゆる最後通牒を発令。ローマの法律では、反乱防止のため将軍が軍隊を率いてイタリア領内に踏み入ることを禁じていました。しかしカエサルは勧告に構わず自分の軍隊を率いてイタリア領の境界線ルビコン川を渡り、元老院派に対する対決姿勢を明確に、内戦の火蓋を切って落としたのです。この際にカエサルが部下に向けていった「alea iacta est(賽は投げられた)」という言葉はあまりに有名です。

 

ローマ内戦の結果

ローマ内戦は最終的にカエサル派の勝利と終わりました。元老院派を打倒したことで独裁的権力を手にしたカエサルは、本格的に共和政の改革に乗り出しますが、内戦終結の翌年、共和政の崩壊を危惧した元老院派により暗殺されることとなるのです。そしてカエサル暗殺後、ローマは再び元老院派とカエサル派の内乱に突入していき、カエサルのやろうとした改革は内乱を収めたカエサルの後継者オクタウィアヌス(アウグストゥス)に引き継がれ、ローマは帝政に移行していくこととなります。

 

ローマ内戦の年表

年月日 戦い 原因と結果
前49年6〜9月 イレルダの戦い カエサルがポンペイウス派の軍を破る。
前49年5〜10月 マッシリア包囲戦 カエサル軍がマッシリア(現マルセイユ)を包囲し占領。
前49年8月 バグラダス川の戦い カエサル派がヌミディアの支援を受けた敵軍を撃破。
前48年7月 デュッラキウムの戦い ポンペイウスがカエサルに勝利するが追撃を断念。
前48年8月 ファルサルスの戦い カエサルがポンペイウスに決定的勝利を収める。
前47年2月 ナイルの戦い カエサルがエジプトの反乱軍を鎮圧。
前47年8月 ゼラの戦い カエサルがファルナケス2世を短期間で撃破。
前46年4月 タプススの戦い カエサルがカルタゴ付近でポンペイウス派を完全に制圧。
前45年3月 ムンダの戦い カエサルが最終的にポンペイウス派を撃破し内戦終結。