紛争の舞台となったユーゴスラビア
ユーゴスラビア紛争は、1991年から2001年にかけてユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった民族紛争のことです。この紛争の中で、連邦の構成共和国は次々と独立を遂げていき、現在のバルカン半島諸国の国境が確定しました。
冷戦終結後最大の民族紛争となり、軍事介入の中で民族浄化・ジェノサイドと呼ぶべき戦争犯罪も多々発生しました。そういったこともあり、クロアチアとボスニアはこの内戦を「内戦」というより、ユーゴ連邦(セルビア)による「侵略戦争」と位置付けています。
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ユーゴスラビアは第一次大戦後の建国時から様々な民族が混合する、民族問題が絶えない国でした。とくにユーゴスラビアで主導的立場だったセルビアと、それに反発するクロアチア人の対立は深刻で、第二次世界大戦中には、セルビア人がクロアチア人を虐殺したり、クロアチア人がセルビア人を虐殺したりと、民族主義者による残虐行為の応酬が繰り広げられました。
戦後、そんな過去の残虐行為に対する恨みは、共産党による一党独裁体制により抑制されていましたが、チトーの死後、再び民族問題が顕在化。89年東欧革命以降、ユーゴスラビアにも民主化の波が押し寄せ、ユーゴスラビアを構成する国々が次々と独立を宣言するのです。そして体制維持のためにそれを食い止めようとする連邦政府が軍事行動を起こし、紛争が開始されました。
ユーゴスラビアは、異なる民族が入り混じった複雑な民族構成の国でしたが、89年に東欧革命が起こると、民族自決を求める声が高まっていきます。そんな中で1991年6月、独立宣言を行ったスロベニアに対し、連邦政府が軍事介入を行い、ユーゴスラビア紛争の開幕戦といえる「十日間戦争」が開始されたのです。
スロベニアがこれに勝利し独立を達成すると、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア(現北マケドニア共和国)など他の構成共和国も次々と独立を宣言していきました。
構成共和国の独立宣言を受け、クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とユーゴ全域に紛争が拡大していきました。またセルビア国内でもコソボ自治州が独立を宣言したことで、コソボ紛争が開始されています。
激しい戦闘の末、独立を宣言した国々は連邦政府から分離していき、6共和国と2自治州で構成されていた連邦国家も、1992年4月にはセルビアとモンテネグロを残すのみとなりました。
二国はユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)の結成を宣言するも、2003年には「セルビア・モンテネグロ」に改称、2006年にそれぞれ独立国家となったことで、ユーゴスラビア連邦は完全に消滅しました。
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